2026.09.12
第4話 現地に残されていた「暮らしの跡」
資料をそろえた私は、現地へ向かいました。長い間使われていなかった家は、庭木や雑草に囲まれ、道路から見ただけでは敷地の奥まで分かりません。車を止め、周囲を歩き、道路との高低差や進入口、隣地との境界らしき位置、排水先などを確認していきます。
室内へ入ると、資料からは分からなかった建物の傷みが見えてきました。床の感触、天井や壁の染み、建具の動き、水回りの状態。増築されたように見える部分もあります。登記上の建物と、目の前にある建物が同じなのか。ここで初めて、追加で調べるべきことが具体的になります。
けれど、私が現地で見るのは不具合だけではありません。柱に残る子どもの身長の印、使い込まれた台所、庭に植えられた木、農作業に使われていた道具。そこには、この家で誰かが生活していた跡が残っていました。相続人から聞いた「祖父は畑仕事が好きだった」という話が、目の前の風景とつながります。
難しい条件がある物件でも、そうでない物件でも、一つひとつの家には物語があります。どのような方が住み、どのような生活を営んできたのか。それを知ることは、物件をきれいに見せるためではありません。次にこの家を必要とする方へ、正しく魅力を伝えるためです。
そして敷地を確認すると、登記上「畑」となっている土地が含まれていました。さらに行政で調査を進めると、「農家の分家」という言葉が出てきたのです。
-次回へ続く―
2026.09.11
第3話 その査定額、本当に信じて大丈夫ですか?
登記簿、公図、地積測量図、建物図面、周辺の売出事例や成約事例。机上査定では、入手できる資料を使って、おおよその価格を算出します。一般的な住宅地で、土地や建物の状況がある程度分かっていれば、机上査定でも参考となる価格帯を示すことはできます。
しかし、相続した古い家や土地では、資料だけでは見えないことが少なくありません。建物は実際にどの程度傷んでいるのか。登記されていない増築部分はないか。敷地へ車で入れるのか。境界や越境はどうなっているのか。農地は現在どのように使われているのか。過去にどのような許可を受けて建てられたのか。こうしたことは、机の上で数字を眺めているだけでは分かりません。
査定を依頼すると、その日のうちに回答が届くこともあります。複数の会社へ依頼すれば、他社より高い金額を提示する会社もあるでしょう。回答の早さや査定額は、会社選びの材料の一つです。ただし、査定額はその金額で売れることを約束するものではありません。
私は、まだ調べ切れていない段階で、耳触りのよい金額だけを先にお伝えすることには慎重です。「今の資料で分かるのはここまでです」「正確に判断するには現地と行政の確認が必要です」とお話しします。依頼者が知らない問題は、私にもまだ分からないからです。
大切なのは、最も高い金額や最も早い回答だけで会社を決めることではありません。何が分かっていないのか、次に何を調べるのかを正直に説明してくれるか。そこに、信頼できる不動産会社を見極める一つのポイントがあります。
-次回へ続く―
2026.09.10
第2話 相続した本人も、物件のことを知らない
相続不動産の査定で、最初にぶつかることがあります。それは、現在の所有者である相続人が、その物件についてほとんど知らないということです。もちろん、責められることではありません。子どもの頃に祖父母の家へ遊びに行っただけ、独立してからは年に一度も帰っていない。そのような方が、ある日突然、売主の立場になります。
雨漏りをしたことはあるのか。過去に増築していないか。給排水管はどこを通っているのか。隣地との境界について話し合ったことはないか。私が尋ねても、「分かりません」という答えが続きます。しかし売却する際には、相続人も売主として、知っている事実を買主様へ伝えなければなりません。知らないから何も確認しなくてよい、とは言い切れないのです。
そこで私は、建物の状態だけでなく、その家でどなたが、どのように暮らしていたのかを聞いていきます。おじい様は農業をしていたのか。お父様はこの家で何年暮らしたのか。離れや物置はいつ頃つくられたのか。断片的な記憶でも、調査の手掛かりになることがあります。
同時に、それは物件のストーリーを知る時間でもあります。庭の木を大切にしていたこと、家族が集まる縁側があったこと、畑で採れた野菜を近所へ配っていたこと。査定書の数字には表れませんが、その家には確かに暮らしがありました。
分からないことを分からないままにせず、記憶と資料を一つずつつないでいく。相続不動産の査定は、そこから始まります。
-次回へ続く―
2026.09.08
第1話 ある日、相続不動産の査定依頼が4件届いた
ある日のことです。会社に戻ってメールを確認すると、不動産の査定依頼が入っていました。それも1件ではありません。同じ日に、4件です。さらに内容を確認すると、4件とも相続によって取得した不動産についてのご相談でした。
一日に4件も重なったのは、たまたまだったのかもしれません。ただ、不動産の仕事をしていると、相続した実家や土地について「自分では使わないけれど、どうしたらよいのか分からない」という相談が増えていることを感じます。親世代が地方に不動産を持ち、相続人である子どもたちは東京や神奈川など遠方で暮らしている。今の時代、決して珍しい話ではありません。
査定の入口もさまざまです。不動産会社のホームページから直接依頼する方もいれば、紹介や一括査定サイトを利用する方もいます。まず金額を知りたい、と考えるのは当然です。今回の4件も、物件の場所や内容はそれぞれ違いました。共通していたのは、相続人が遠方に住み、その不動産について詳しく分からないということでした。
「小さい頃に何度か行っただけです」「父から詳しい話を聞いていません」「土地がどこからどこまでなのかも分かりません」。そんな言葉が並びます。依頼者が知らないことは、机上で資料を見る不動産会社にも分かりません。まずは登記簿や公図などを集め、何が分かり、何がまだ分からないのかを整理する必要があります。
4件の中には、調べ始めると確認事項が次々に現れる物件もありました。ここからは、その中でも特に調査に時間を要した1件を中心に、相続不動産の査定で私が何を見ているのかをお話しします。
-次回へ続く―
2026.09.07
第5話―安心でつなぐ住まいのバトン―
家を売る理由は、人によって本当に違います。
子どもが独立し、戸建てからマンションへ住み替える方。
親から相続した実家を売却する方。
離婚や転勤、住宅ローンなどの事情で家を手放す方。
長年暮らした家を離れ、新しい場所で生活を始める方。
同じ「不動産売却」でも、その背景は一つとして同じではありません。
だから私は、売却を依頼されたとき、
「その家が、これまでどんな役割を果たしてきたのか」
ということも知りたいと思っています。
どんな暮らしをしてきたのか。
どこを気に入っていたのか。
そして、どんな思いで手放すことを決めたのか。
査定とは直接関係のない話になることもあります。
それでもいいのです。
ただし、その思いを買主様に押し付けるつもりもありません。
買主様には、買主様の人生があります。
購入後に大きくリフォームするかもしれません。庭も、部屋の使い方も変わるかもしれません。
それでいいと思っています。
なぜなら、その家はそこで、次の役割を始めるからです。
売主様やご家族の生活を支えてきた家が、今度は買主様やそのご家族の生活を支える家になる。
私は、過去の物語をそのまま残したいのではありません。
これまでの物語を大切にしながら、次の物語へつないでいきたい。
売主様の「これまで」と、買主様の「これから」。
その間を安心してつなぐ存在でありたい。
それが、私が不動産の仕事を続けてきた中でたどり着いた、
「安心でつなぐ住まいのバトン」
というM-andの理念です。
この「M-andの大冒険記」では、これからも実際の不動産の現場で経験してきたことを書いていきます。
うまくいったことだけではありません。
悩んだこと、困ったこと、失敗したこと。
そして最後に、無事にバトンを渡すことができた話。
そんな一つひとつの経験が、これから家を売る人、買う人、相続や住み替えで悩んでいる人に、少しでも役立てばと思っています。
売主様の「これまで」から、買主様の「これから」へ。
これからも私は、一つひとつの住まいのバトンを大切につないでいきます。
2026.09.06
第4話―石蔵も、畑も、そして田んぼも
不動産の仕事をしていると、「これは単純に家を売ったという話ではないな」と感じる取引があります。
今回は、そんな実際の不動産売買をもとにしたお話です。
※売主様や買主様が特定されないよう、内容の一部は伏せています。
その物件は、新しい住宅ではありませんでした。
昔からそこにある家があり、石蔵があり、周りには畑もありました。
古い建物ですから、これから手を入れなければならないところもあります。
不動産広告だけを見れば、「築年数の経過した中古住宅」です。
ところが、買主様が見ていたものは少し違いました。
家だけではなく、石蔵にも、畑にも興味を持ってくれました。
そして何より、そこでどんな暮らしができるのかを、とても楽しそうに考えていたのです。
話を進めていく中で、さらにこんな言葉が出ました。
「田んぼもお願いできませんか?」
私は不動産屋ですから、ここからは現実的なことも考えます。
農地は普通の宅地のように簡単に売買できません。農地法の手続きや権利関係など、一つずつ確認する必要があります。
でも、その手続きを考えながら、私は別のことも感じていました。
この方は、中古住宅を一軒買おうとしているだけではないのかもしれない。
家があり、石蔵があり、畑があり、田んぼがある。
そこで営まれてきた暮らしそのものを受け継ごうとしているのではないか。
売主様にとっても、家や石蔵、畑、田んぼには、ご家族がその場所と関わってきた歴史があります。
だから、この取引では「売る」という言葉より、
「この方なら、託してもいい」
という言葉の方が合うように感じました。
一人の人が守ってきた場所を、次の人が受け継いでいく。
その間に立ちながら、
「これが住まいのバトンなのかもしれないな」
と感じた、忘れられない取引の一つです。
2026.09.05
第3話―「この人なら」と思える人へ―
不動産売買では、売主様と買主様はそれぞれ違う立場にいます。
売主様は、できるだけ良い条件で売りたい。
買主様は、自分が納得できる条件で購入したい。
価格交渉や引渡し時期、設備や残置物など、一つの契約をまとめるまでには、本当にいろいろな調整があります。
ですから、不動産仲介は「条件をまとめる仕事」でもあります。
でも、多くの取引に関わっていると、それだけでは説明できない場面があります。
買主様について売主様にお話ししたとき、
「そういう方なら、この家を使ってもらえたら嬉しいですね」
と言われることがあります。
反対に買主様から、
「売主さんは、どうしてこの家を売るんですか?」
「どんな方が住んでいたんですか?」
と聞かれることもあります。
もちろん個人情報がありますから、何でもお話しできるわけではありません。
それでも、まだ契約前なのに、少しずつ売主様と買主様の間に信頼のようなものが生まれることがあります。
私は、こういう瞬間を大切にしたいと思っています。
不動産屋は、売主様の言葉を買主様へ、買主様の言葉を売主様へ伝えるだけの「伝言係」ではありません。
双方が何を大切にしているのか。
何を不安に感じているのか。
どうすれば安心して取引できるのか。
その間に立って考えるのが、不動産仲介の仕事だと思っています。
もちろん、すべての取引がこんな形になるわけではありません。
それでも、売主様が大切にしてきた家を「ここで暮らしたい」と思ってくれる人が現れ、売主様も、「この人なら」
と思ってくださったなら、その間をしっかりつなぎたい。
契約書に「売主様の思い」という項目はありません。
でも、その契約書の向こうには、これまでその家で暮らしてきた人と、これから暮らしていく人がいます。
私は、それを忘れない不動産屋でありたいと思っています。
2026.09.04
第2話―売主様から、家の物語を聞く―
家を売りたいというご相談をいただくと、確認しなければならないことがたくさんあります。
売却理由、希望時期、住宅ローンの残債、建物の不具合、リフォーム履歴。相続した不動産なら、相続登記などの確認も必要です。
不動産売却を安全に進めるためには、どれも欠かせません。
でも私は、それとは別に、こんなことも売主様に聞きます。
「この家には何年くらい住んでいるんですか?」
「どうして、この家を選んだんですか?」
「実際に暮らしてみて、どこが一番良かったですか?」
話しているうちに、売却とはあまり関係のない昔話になることもあります。
でも、それでいいと思っています。
「この窓から入ってくる風が気持ちいいんですよ」
「この庭は主人がずっと手入れしていたんです」
そんな話の中に、何年もそこで暮らしてきた人にしか分からない、その家の姿があるからです。
もちろん、聞いた話をすべて買主様に伝えるわけではありません。
売主様にとって大切な思い出でも、買主様がどう受け止めるかは分かりませんし、売主様の思いを押し付けるようなこともしたくありません。
それでも、自分が売却を任された家については、できるだけ知っておきたい。
私はそう思っています。
築年数だけを見れば「古い中古住宅」でも、
「夏はここから風が抜ける」
「朝はこの部屋に陽が入る」
といった、物件資料だけでは分からない魅力があるかもしれません。
そういうことまで知ったうえで、
「この家を気に入ってくれるのは、どんな人だろう?」
と考えながら、次の方を探していきたいのです。
査定書を作ることだけが、不動産売却の始まりではありません。
その家でどんな時間を過ごしてきたのか。
売主様から、その「家の物語」を聞かせてもらう。
私にとっては、そこからすでに売却のお手伝いが始まっています。
2026.09.01
第1話― 人と人をつなぐ物語 ―
不動産売却のご相談をいただくと、私たち不動産会社は、まずその家についていろいろなことを調べます。
土地や建物の広さ、築年数、間取り、道路の状況。そして、いくらくらいで売却できそうなのか。
不動産を売るためには、どれも大切なことです。
でも、長くこの仕事をしているうちに、私は少し違うことも考えるようになりました。
家って、本当に「物」としてだけ考えていいのだろうか。
たとえば30年間暮らしてきた家も、販売資料にすれば「築30年の中古住宅」です。
でも売主様にとっては、当然それだけではありません。
子どもが生まれ、庭で遊び、家族で食卓を囲み、やがて成長した子どもたちが巣立っていく。
その間ずっと、ご家族の生活を支えてきたのが、その「家」です。
売主様とお話をしていると、
「この庭は主人が好きでね」
「子どもが小さい頃は、この部屋をこう使っていたんですよ」
そんな話を聞かせていただくことがあります。
こうした話は、不動産の査定価格には直接関係しないかもしれません。
でも私は、結構大事な話だと思っています。
もちろん、不動産屋ですから、少しでも良い条件で売却することは大前提です。
ただ、価格を査定して、広告を出して、買主様が見つかったら契約して終わり。
私は、それだけの仕事にはしたくありません。
売主様にとって長年生活を支えてくれた家が、今度は買主様の新しい生活を支える家になる。
売主様の「これまで」から、買主様の「これから」へ。
不動産売買には、そんな一面もあると思っています。
私たちM-andが掲げる、
「安心でつなぐ住まいのバトン」
という理念は、そんな思いから生まれました。
次回は、私が家の売却をお手伝いするときに大切にしている「売主様から家の物語を聞くこと」について書いてみたいと思います。